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美濃焼の歴史ページ

岐阜県の東南部(現在の多治見市・土岐市・瑞浪市・可児市)より産出する陶磁器を総称して美濃焼といいます。かつては同じ岐阜県内に温故焼、金華山焼、養老焼、船木山焼などありましたが、美濃焼には含まれません。

元来、美濃国三郡(土岐・可児・恵那)は尾張・三河(ともに愛知県)に接し、陶磁器の原料となる「土岐サレキ層」上にあり、陶工たちは古くから自由に移動し、瀬戸・美濃の区別なく製陶を行っていました。

1567年(永禄10年)に織田信長が尾張から侵入し美濃を兼併すると、政治的背景を得て瀬戸工で美濃三郡に流入する者が日に日に増し、これにより陶業「美濃焼」の基礎を決定しました。

江戸時代になり美濃三郡は幕府の直轄地となりました。しかし物産については尾張藩の規制を受け、特に文化文政(1804~30年)より陶磁器製造が盛んになると、尾張藩は美濃の焼物を名古屋の十二蔵元商に納めさせ、販売に当っては瀬戸焼の名を使いました。現在、焼物を「セトモノ」と総称するのは、ここに起因しています。

しかし明治維新で廃藩が確定すると、初めて「美濃焼」の名を称えることができるようになりました。

出典「美濃名細記」「府県陶器沿革陶工伝統誌」「美濃陶器誌」




特徴~美濃焼を代表する、織部焼・志野焼

釉薬名 織部

安土・桃山時代にそれまでなかった自由な発想で登場した「美濃桃山陶」の作風で、茶人・古田織部正の好みによって焼成された陶器を言います。今でいう織部焼は本来の「織部好み」の一部分だけについての名称で、本来は志野焼を包含しています。

江戸時代初期編・『茶碗茶入目利書』に解説される織部焼には、「黒織部」「青織部」「赤織部」「絵織部」「鳴海織部」「唐津織部」「伊奈織部」があります。今でいう織部焼は主に「青織部」を指します。 青織部の特徴は向付・鉢・徳利の類が多く、銅緑釉がたっぷり施されています。全部に緑色を施したものを総織部と称しています。

釉薬名 志野

安土・桃山時代に美濃・瀬戸系諸窯で焼かれた雅陶で織部焼の一種。

室町時代後期の天文から天正年間(1532~92)の茶会記に「志野茶碗」がみえることから志野焼の初現と解説されることがありますが、「志野茶碗」は唐物、つまり唐からの輸入品であり、「志野焼」は後の安土・桃山時代に創製された純国産です。また足利義政の近習で志野流香道の祖である志野宗信が、瀬戸に好みを受けて焼かせたことで起ったという説もありますが、信じ難いとされています。

志野焼は乳濁釉のところどころに紅赤色の火色を現し、あるいはこれに鉄釉の疎画や文字を加える意匠が特徴です。釉は他の陶磁器とは異なり純粋な長石釉を施し、貫入があります。鉄絵の文様は極めて簡素で、しかもその発色は焼成火度に応じて黒色、褐色、赤色、鼠色というように多様な変化を示します。

志野焼は前述したように織部焼の一種であり、意匠・作行ともに日本独自の創作で、その古製は大変珍重されています。種類は茶碗の他に、花生・水指・建水・鉢・徳利・千代口・グイ呑・香合などあります。

出典「万宝全集」「名器録」「原色陶器大辞典」